夢のイメージ

diary

知人のお芝居を見に行った。昨日、いやもう一昨日のことだ。

何ヶ月か前に知り合ったばかりだった。趣味(と言っていいのか分からないけど)で演劇をやっているという話は聞いていて、いつかは生で見てみたいと思っていた。
彼女のことはそんなに沢山は知らないけど、彼女の創る舞台はきっと素敵だろうという確信があった。

この公演の告知は何日も前からされていたものの、COVID-19のことや個人的にタスクがわんさかあることなどからチケットの購入は迷っていた。しかし、いつまたチャンスが来るか分からない。そして何より好奇心が大きかった。それが他の心配を追いやるほどの大きさに育ったとき、行ってみようと決めた。本番の2日前という滑り込みだった。

生で見たその演劇は、思った通り、素敵だった。

内容としては、夢と現実の狭間にずっとたゆたうようなお話で、彼女の1人芝居だった。
お話の主人公と一緒に、私もぼんやりした空間をふわふわと漂った。
とても心地よい時間だった。

そして、お話を聞いている内に、ある気付きを得た。
私は「「夢」というキーワードから、ある特定の視覚イメージを連想しているようだ。
主人公が「夢」と呟くたび、私はその景色の中に佇んでいた。

それから、この「夢」という言葉から得るイメージというのは、
もしかすると人に依ってかなりバラついているのかもしれないと思った。

私が「夢」という言葉を聞いたとき思い浮かべるのは、
薄いグレーの天井と壁、
黄色い光が差し込む窓、
それらがみんな淡く鈍く輝いている様子だ。

そこは体育館なのか校舎なのか公民館なのか分からない。
ひどく無機質なコンクリート造りの建物と、全てを柔らかく包むような西日。
日本でならどこにでも見つかりそうな空間だが、そこからは外界を一切窺い知ることができない。
そこには人もいない(まあ、夢によっては、いることもある)。
窓を見ても、優しくぼうっと光っているだけ。
これが私の持つ「夢」のイメージである。

自分が「夢」という言葉に対して
無機質で退廃的なイメージを抱いているのだということを
初めて自覚し、驚いた。

ここで言う「夢」のイメージとは、あくまで単語に対するものだ。
したがって、眠っているときによく見る光景や遭遇する状況のことではない。

私の「夢」のイメージも、
半分は実際に見た夢から形成されているが、
もう半分は実体験であるはず。
(はっきり断言したいところだが、何しろ2~4歳くらいの記憶なのでかなり曖昧なのだ。)

人に依って持つイメージ違うのだろうなと思ったのは、
まさに自分が抱いているイメージが現実の記憶からも影響を受けているからだった。

これは「夢」に限ったことではなく、
ある言葉に対してその人が連想するものというのは、
実にさまざまな形をしている。
同じものを見ているようで、それぞれ全く違うものが見えている。
だから、我々は沢山の言葉を交わす必要があるのだろう。
誰かと同じものを一緒に見て聞いて感じたいと、本当に願うなら。

お芝居の中で夢と現実の間をふわふわたゆたいながら、面白いことを考えられた。
本当にいい時間だった。